効果的なパワハラ対策の基本的な考え方とは

ハラスメント研修の前半では、行政機関が作るハラスメント研修用の資料を使っています。

この国では標準を作るのは役所ですから。

いや、世間がそう思って、とりあえず信じますから。

で。私が説明するのは、「これがとりあえず標準的なハラスメントの考え方です」ということ。

ハラスメントの被害者がスマホで検索すると、こういった資料が、さも当然のごとく目に入ってきますよ。

で。標準的な説明を終えると、こういう感想をぶつけられます。

「どこからハラスメントになるのかを明確にしてください。」

で。「そういうものじゃありませんよ」と私。

役所の資料は「ハラスメントを予防する」という前提だから、「これはハラスメント、これは違う」という内容です。

「それは無理ですよ」と私。

役所の発想では、「このバカチンが!」はパワハラだそうで。

私の発想では、「金八先生がそれを言ってもパワハラではない。」

ハラスメントかどうかは、その人の心理状況でどう感じられるかによる。

それは、セリフで使う単語によって区別できることではないのです。

ならばハラスメントをどう防ぐのか?

ムリでしょう、完全には。

不愉快にさせないよう努力していることが大事なんですが、伝えたいことを遠慮したらいけません。

そして、不愉快だと感じた人は、それを相手に伝えましょう。

「あのう。今の言葉傷つきました。」

「え。そうなの? どの部分だった?」

そういう会話をしましょうよ。

それではだめなんですか?

なぜですか?

それが人の精一杯ではないのですかね。

私のハラスメント対策は、ハラスメントの予防ではなく、「不愉快に感じたあと、どう許しあうか」です。

ハラスメントに対して絶望させないことが大事なのです。

人は完璧ではないのに、どうして完璧を求めるのか。

どうせムリなのにね。

作戦名はウルチ

朝鮮半島有事に備えた米韓合同演習の名称「ウルチ」。
これは高句麗の名将「乙支(ウルチ)文徳」にちなんだ名です。

西暦612年、隋の二度目の高句麗遠征の際、補給不足に悩んでいた隋軍と講話し、中国軍が撤退を開始して油断したところを攻撃し勝利したという英雄です。

30万の隋軍はほとんど壊滅したとされます。

だまし討ちに近い方法とは言え、大軍を破った英雄ですが、一つ問題なのは高句麗は中国と朝鮮、どちらに属するのかということ。

中国政府は高句麗を中国の地方政権と主張しています。
つまり、朝鮮北部を領土に加える意図があったとしてもおかしくない。

一方で韓国政府は高句麗を自国の歴史の一部と言います。
高句麗は1世紀頃にはあったようで、唐に滅ぼされるまで600年ほど続きましたが、最後の首都は平壌、つまり現在の北朝鮮でした。

とすると、乙支文徳は朝鮮に攻めてきた中国軍を撃退した英雄なのですね。
そして、米韓合同演習の名がウルチですから、これは中国との戦争を念頭に置いているという意味でしょうか。

最近の半島情勢では北朝鮮ばかりが目立っていますが、本命は中国だったりしませんでしょうか。。
だって、半島周辺におけるミサイル防衛システムの整備は結果として中国の軍拡に対抗することになります。

中国との緊張を避けながら防衛システムを配備するには何か大義名分が必要です。
そして、防衛システムを売って儲かるのは米国の企業。買うのは日本政府。

トランプ大統領はしたたかなビジネスマンです。
そういう図式で見ると、ニュースがまた違って見えてきます。

6世紀初頭の隋帝国は東アジアへの領土拡張を目論んでおり、聖徳太子が遣隋使を送ったのは国防上の目的もあったと思います。
ウルチに負けた隋帝国は、その6年後に滅亡しました。

関門海峡は人がつくった

小倉に出張しまして、小倉市街の地図を眺めますと北東に関門海峡があります。

さて、関門海峡はいつできたのか。
ウィキペディアを見ますと今から6000年前だと。

6000年!?
つい最近じゃないですか。

氷河期の終焉とともに海水面が上昇して瀬戸内海と日本海がつながったと。
しかし当時、そこには縄文人の皆さんがいましたよね。

実は、関門海峡は自然にできたのではなく、人工の海峡、つまり運河だっだという俗説があります。
地図で見ると、確かに関門海峡は川のように細く長い。そして不自然。

しかし、人工説はほぼSFとして否定されています。
でもですね、私は人が作ったと思うのです。

6000年前のある日。瀬戸内と日本海の海水と海水がもう少しでつながるところ。
でももう少し時間がかかりそう。

それを見ている人がいるわけです。
縄文時代の人たち。

「あそこの土をもう少し掘って、この岩を少しどければつながるんじゃね。」

「いやまだ結構距離あるよ、いっそのこと、俺達で掘っちゃえば。」

「えー、時間かかるって。そんな暇じゃねえし。」

「いや、結構偉大なことだと思うよ、俺は。仲間集めてやろうぜ。」

みたいなことが、なかったと言えるんでしょうか。
いや人間心理として、これは放って置けない状況だと思うのです。

関門海峡は人間が作った。
私は確信してます。

お祖父さんの戦場

(1)金鵄勲章

遠い親戚の法事の場からLINEで写真が送られてきました。
故人の遺品ですが、金鵄(きんし)勲章というメダルと表彰状、従軍記章、認識票。

私が歴史好きだと知って感想を聞きたかったようです。
金鵄勲章は武勲を立てた軍人がもらえるもの。

従軍記章は戦争に参加した証明書ですが、上海事変と支那事変の二つの記章があり、それぞれ年代も書いてあります。

認識票によると歩兵第七連隊第一中隊とあり、金沢の第九師団所属の伍長でした。
伍長は兵卒の上で将校の下、いわゆる「下士官」であり、現場の班長的な存在です。

故人は、第一次と第二次の上海事変に参加しています。
いずれも「事変」で片づけられない激しい戦闘が起きています。

昭和7年の第一次上海事変では肉弾三勇士が軍神になったし、昭和12年の第二次上海事変はそのまま日中戦争へ、そして南京占領へとつながってゆきます。

故人の家族はこういった話も、故人が南京事件の現場にいたであろうことも全く知らなかった様子で、私はどこまで話をしたものか考えました。

死ぬまで言えなかったことがたくさんあったろう。と想像します。
昭和15年に足に銃弾を受けて退役し、戦後も長生きされて、その葬儀には私も参列しました。


(2)第一次上海事変

遠い親戚のお祖父さんが参加した第一次上海事変とは、何だったのか。
上海は列強各国の商人らが居住している「租界」が発展してできた都市です。

アヘン戦争、義和団事変、その後も中国を植民地化しようとする日本や外国に対する中国人の強い不満が鬱積していました。

昭和6年、日本軍(関東軍)が満州全土の占領を開始して国際社会の反発を買っていた頃、関東軍参謀らの一部が国際社会の目をそらすための謀略を画策しました。

国際都市上海で大事件が起きれば、満州問題への国際社会の関心が薄れるだろう。
こうして紆余曲折の末、昭和7年1月28日、上海租界を守備する陸戦隊(日本海軍)を中華民国第19軍が攻撃する形成となりました。

このとき救援として派遣された部隊に、お祖父さんが所属する陸軍第9師団がありました。
上海北方の揚子江河口に上陸し、中国軍の包囲網を突破しようとしてたくさんの戦死者がでました。

お祖父さんは歩兵第七連隊の第一大隊に所属していました。
一連の戦闘で第七連隊長が戦死し、同じ連隊の第二大隊が壊滅して大隊長(空閑昇少佐)が捕虜(後日拳銃で自決し映画化された)になるほどの激戦でした。

敵陣の鉄条網を破壊するために自爆した3人の工兵「肉弾三勇士」の実話もこの戦場で生まれました。

空中では米軍義勇兵ロバート・ショートの操縦する中国軍機が空母加賀の艦載機と格闘しました。
これを撃墜(日本史上初の)したパイロットは当時子役だった森光子さんからファンレターをもらっています。

民間人に紛れて攻撃してくる中国人ゲリラ(便衣隊など)への対応にあたって民間人が巻き添えに処刑される問題もでました。
5月5日に停戦となりましたが、この事変では、中国と本格的な戦争になれば何が起こるかを予想させる様々な出来事がありました。

お祖父さんは無事に帰れました。日本側の死傷者約3000人。中国側約18000人だとか。
昭和7年6月14日、衆議院本会議において満洲国承認決議案が全会一致で可決されました。

満州国誕生。そして、5年後には第二次上海事変が起きます。

 


(3)匪賊討伐

第一次上海事変後、満州に移動した第9師団に私のお祖父さんが伍長として所属としていました。
満州駐箚(ちゅうさつ)任務で最も危険なのは匪賊の討伐です。

広大な満州ではそれまでの歴史において、中央政府の統治が村落に及んだことはほとんどありませんでした。
治安と秩序は都市部に限られ、しかも当時は軍閥間の抗争で治安が悪いため都市を一歩出ればそこは無法地帯。

農村は自衛のために武装し、互いに連携するしかありません。
その背後にいたのが匪賊や馬賊と呼ばれた非合法武装勢力でした。

奉天軍閥の首領として有名な張作霖も満州馬賊の出身でした。
匪賊は村や財産があるところを襲撃したり、富裕者を誘拐したりもしますが、自衛組織の一面もあります。

数千年の流儀で自治をやってきた地方に、いきなり日本軍がやってきて日本流の秩序をもたらそうとしても無理があります。

当時、満州に対する日本の権益は満州鉄道沿線に限られていましたが、沿線の治安維持のために匪賊討伐権が国際的に承認されていました。
治安を乱す匪賊を討伐すると称して、所在の関東軍が頻繁に出動しました。

匪賊は馬賊、つまり馬に乗って小銃を打ち、相手が手ごわいとみれば山野に隠れますから、匪賊討伐は数日にわかって山野を彷徨うことになり、不意打ちを受けたり、怪しい家屋を摘発したりと、常に緊張を強いられる活動でした。日本兵の犠牲も多かったのです。

捉えた匪賊は多くの場合、現場で処刑されます。
そういう写真はネットでいくらでも出てきます。お祖父さんも、そういった写真を持っていました。

軍隊は24時間、分刻みで統制され、何が正義であるかを考える余裕を与えません。
お祖父さんの胸の内を想像すると、現代の常識とは相当かけ離れたものだったと思います。

でも、それも私の勝手な想像にすぎません。
私は何も聞いていないのですから。


(4)第二次上海事変

昭和7年、国際的孤立と引き換えに誕生させられた満州国。
その国際的非難をうやむやにした第一次上海事変。

しかし関東軍の一部過激将校達の野望は止まりません。
昭和12年7月7日、謎めいた盧溝橋事件により戦闘が始まると、和平交渉がまとまらない中で中国の反日感情が益々高まってゆきます。

ドイツ陸軍の支援を受けて対日戦の準備を固めていた中国軍の一部は、昭和12年8月12日、上海の共同租界を包囲し、翌日には所在の海軍陸戦隊の陣地を攻撃しました。

上海沖の第三艦隊(日本の)に対する爆撃も始まり、これを受けて日本海軍は台北から南京などの重要都市に対する渡洋爆撃を開始しました。

8月15日に日本政府は「支那軍膺懲(ようちょう:こらしめること)、南京政府の反省を促す」という声明を発表。
2個師団を動員して上海派遣軍を編制し、8月23日は上海近辺で上陸作戦を開始。

華北所在の日本軍も攻勢に出て本格的な戦争状態となりました。
上海救援のため派遣された上海派遣軍は上陸戦で大損害を受け、その後もゼークト陣地と呼ばれるドイツ式要塞を相手に苦戦し、9月9日、お祖父さんが所属する第9師団にも出動命令がでました。

派遣軍は苦戦の末陣地を突破し、中国軍を撤退させることに成功しましたが、第9師団は南京占領までに大損害を受けました。
ウィキペディアでは戦死傷者18,761とありますが、これだと一個師団相当の人数なので、師団がほぼ全滅した規模です。

補充を受けながら戦闘を続けたのでしょうが、上陸戦に参加した人のうち、南京にたどり着けたのはどのくらいだったのでしょうか。

やがて中華民国政府は首都南京を放棄して西へ移動。
これを日本軍が追撃する形で事変は拡大し、気が付くと日本は世界を相手に戦争しておりました。

このあと、日本軍は内陸部でゲリラ戦術に悩まされ、南京事件など東京裁判で問題にされた残虐行為も起きました。

お祖父さんは昭和15年、おそらく華南のどこかで足に銃弾を受け、帰国して除隊しました。
ここで負傷していなければ、たぶん中国大陸で命を落としていたでしょう。

プライベートライアンみたいな体験を二回も。よく生きて帰れたものです。
戦後、本人はだまっていたので、私に想像できるのはこのくらいです。

おわり。

ある宮司一族の歴史

柞原八幡宮は豊後の国の一宮。承和3年(836年)造営の由緒ある神社です。

八幡宮なので祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となります。

平安時代のあるとき、朝廷から柞原八幡宮の祭儀に派遣された勅使の藤原某が、体調が悪くなって下向できなくなりました。

やむなく、当時、豊後の国府の税所(税務官)だった日野有幸という人が臨時代行しました。

日野氏は藤原氏の分家なので、遠い親戚だったかもしれません。

そしたら「あんた今後は宮司としてよろしくやってよ」と言われたそうで、それ以来、有幸氏が柞原八幡宮の神職となり代々続いたそうです。

しかし、鎌倉から建武の時代の動乱のなかで神社はすたれ、神職の家系もとだえてしまいました。

付近に祇園社というゆかりの神社があって、そこで宮司を務める日野一族の生き残りがいました。

彼らにはかつて宰相(参議のことか)と呼ばれた先祖の記憶があったらしく、神社再興のため京都へ陳情にでかけたとか。

それがいつの頃かよくわかりませんが、室町時代だとすれば、その頃の京では足利将軍家の外戚として勢力を持っていた日野富子などの日野一族がいましたから、同姓のよしみを期待したのかもしれません。

新たに官位が欲しいとおねだりしたそうですが、けんもほろろに追い返されました。

やむなく地元の領主に泣きついたところ、高田郷という所(今の豊後高田市?)でわずか75石の所領をもらって神社を復興したとか。

その後、戦国大名大友氏の支援もあって、柞原八幡宮は九州でも有数の神社となりました。

宮司一族は社領の一つ、阿南庄というところに代々住んで明治に至りました。

彼らの先祖の日野有幸は藤原氏真夏流の末裔ですが、藤原といっても威勢のいいのはほんの一握り。

藤原氏は鎌足の時代から続いています。その藤原の血を引く人の数はどれほどいたか。

膨大な数の藤原の末裔は、地方の下級役人さえもままならず、土着して霧の向こうに消えてゆきました。

自分の名字のルーツをネットで調べていたら、偶然に柞原八幡宮誌という資料を発見し、そこにあった先祖の物語をまとめてみたものです。

 

柞原八幡宮

http://oita-yusuhara.com/top.html

多賀を訪ねて三千里

宮城県仙台市のすぐ北に位置する多賀城市の市名は、奈良時代(724年)に陸奥の国の政治拠点として設置された多賀城に由来します。

ここで江戸時代の初め頃に発見された石碑には、こんなことが書いてありました。

 多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里

天平宝字六年(762年)に作られた碑文です。まず、京を去ること1500里とあります。
当時の一里は約530メートルなので、1500里なら約795kmとなります。

グーグルマップでは奈良から多賀城市まで徒歩約780kmと出ましたから、だいたい合ってます。

次に、蝦夷の国との国境まで120里とありますが、多賀城市から120里北上すると、岩手県との県境に近く、その向こうには北上川が流れています。

このあたりから先は蝦夷の国、つまり外国扱いだったわけです。

常陸と下野の国はだいたいわかるとして、問題は「靺鞨國界三千里」です。
さて、これはどういう地理感覚でしょう。

靺鞨は現在の中国東北部に存在したツングース系の漁労民族。

後に女真族となって清帝国を樹立しますが、この当時は朝鮮の北にあった渤海国のさらに北の沿海州付近にいた民族です。

当時、渤海国は唐と対立していて、唐は新羅及び靺鞨と連携していました。

孤立を避けるため渤海国が日本に使節を派遣したのが724年。つまり多賀城が設置された時期です。

沿海州から樺太を経て、さらに北海道を経て蝦夷の国へ至り、多賀城へ。

その距離が、奈良の都から多賀城までの距離の2倍くらいになると言うのですね。

多賀城から靺鞨までの距離を当時の人たちが意識していたというのは驚きです。

靺鞨が具体的にどの地点を起点にしていたかわかりませんが、そのルートをイメージできる人々がいたのです。

やがて多賀城を拠点として蝦夷征伐が開始されました。

多賀城にいた人たちは、遠い靺鞨國の向こうに東アジアの軍事的緊張の臭いを嗅いでいたのかもしれません。

ルールを守って死んだ裁判官

戦後の食糧難の時代の話。

当時は食糧管理法によって米が配給制となっていましたが、配給米だけでは国民は生きてゆけないので、政府の管理下にない、いわゆる「ヤミ米」が流通していました。

条文を確認していないのですが、ヤミ米を購入することは刑事罰の適用があったのだとか。
ヤミ米を買ったという理由で、食糧管理法違反により刑事裁判になったりしたのですが、そもそもヤミ米を食べなければ生きてゆけない。

そういう時代だったのですが、では、ヤミ米を勝った人を裁く裁判官はヤミ米を食べなかったのか。

いや実は食べていたのだそうです。
しかしそれでは裁判官としての良心が許さないということで、ヤミ米を食べないで栄養失調で亡くなった裁判官がいました。

山口良忠さんといいます。
享年33歳。

私がコンプライアンス研修でよく取り上げる人です。
ルールを守るために命をかけた人もいた、という話をするうえで重要な人だからです。

あなたにどんなときに、ルールを無視しますか?

社会人の皆さんにこんな質問をするんです。

どんな答えがかえってくるでしょう。

「バレなけれ無視します」

たいていはこうなりますが、そこで止まってしまっては困るのです。

山口さんのような人が一人いた日本と、一人もいなかった日本では、何が違うのか。

それは、山口さんのような人の存在を知って、我々がどう思うかですね。

ルールを知っていても、ルールとどう向き合うかを判断できなければ現実には意味がありません。

この人の死が、その後の世の中にどんな影響を与えたか。
ちょっと調べていただければ、いろいろ情報が出てきます。

一念発起

この年末年始にいろいろなことを考えました。

15年ほど前には知的財産の講師をしていて、その後、著作権をネタにして、法律を楽しく考えてもらう講座をするようになり、やがて念願の風営法セミナーをさせていただくようになりました。

私は法律が嫌いでしたし、今でもそうです。

ですが、死ぬまで、いや、死んだ後まで付き合うことになる法律というものについて、もっと前向きに、もっと面白く向き合ってゆきたい。

そもそも法律は人間次第なのです。

人間を知ることが法律を知ることなのだ。

そして、コンプライアンスも私の仕事になりました。

そういうことを、この20年、ずうっと考え続けてきました。

その間に散らかしてきたいろいろな思いを、そろそろ一つにまとめながら、もう一度自分の考えを整理したいと思いました。

このたび、「著作権のひろば」と「風営法のひろば」を根本的に作り直したのは、そういうことでした。

思いつきですから、きっとおかしなこともここで書くでしょうが、それらも含めて皆様にはしばらく、我慢のうえお使い願います。