柞原八幡宮は豊後の国の一宮。承和3年(836年)造営の由緒ある神社です。
八幡宮なので祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后となります。
平安時代のあるとき、朝廷から柞原八幡宮の祭儀に派遣された勅使の藤原某が、体調が悪くなって下向できなくなりました。
やむなく、当時、豊後の国府の税所(税務官)だった日野有幸という人が臨時代行しました。
日野氏は藤原氏の分家なので、遠い親戚だったかもしれません。
そしたら「あんた今後は宮司としてよろしくやってよ」と言われたそうで、それ以来、有幸氏が柞原八幡宮の神職となり代々続いたそうです。
しかし、鎌倉から建武の時代の動乱のなかで神社はすたれ、神職の家系もとだえてしまいました。
付近に祇園社というゆかりの神社があって、そこで宮司を務める日野一族の生き残りがいました。
彼らにはかつて宰相(参議のことか)と呼ばれた先祖の記憶があったらしく、神社再興のため京都へ陳情にでかけたとか。
それがいつの頃かよくわかりませんが、室町時代だとすれば、その頃の京では足利将軍家の外戚として勢力を持っていた日野富子などの日野一族がいましたから、同姓のよしみを期待したのかもしれません。
新たに官位が欲しいとおねだりしたそうですが、けんもほろろに追い返されました。
やむなく地元の領主に泣きついたところ、高田郷という所(今の豊後高田市?)でわずか75石の所領をもらって神社を復興したとか。
その後、戦国大名大友氏の支援もあって、柞原八幡宮は九州でも有数の神社となりました。
宮司一族は社領の一つ、阿南庄というところに代々住んで明治に至りました。
彼らの先祖の日野有幸は藤原氏真夏流の末裔ですが、藤原といっても威勢のいいのはほんの一握り。
藤原氏は鎌足の時代から続いています。その藤原の血を引く人の数はどれほどいたか。
膨大な数の藤原の末裔は、地方の下級役人さえもままならず、土着して霧の向こうに消えてゆきました。
自分の名字のルーツをネットで調べていたら、偶然に柞原八幡宮誌という資料を発見し、そこにあった先祖の物語をまとめてみたものです。
柞原八幡宮