宮城県仙台市のすぐ北に位置する多賀城市の市名は、奈良時代(724年)に陸奥の国の政治拠点として設置された多賀城に由来します。
ここで江戸時代の初め頃に発見された石碑には、こんなことが書いてありました。
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
天平宝字六年(762年)に作られた碑文です。まず、京を去ること1500里とあります。
当時の一里は約530メートルなので、1500里なら約795kmとなります。
グーグルマップでは奈良から多賀城市まで徒歩約780kmと出ましたから、だいたい合ってます。
次に、蝦夷の国との国境まで120里とありますが、多賀城市から120里北上すると、岩手県との県境に近く、その向こうには北上川が流れています。
このあたりから先は蝦夷の国、つまり外国扱いだったわけです。
常陸と下野の国はだいたいわかるとして、問題は「靺鞨國界三千里」です。
さて、これはどういう地理感覚でしょう。
靺鞨は現在の中国東北部に存在したツングース系の漁労民族。
後に女真族となって清帝国を樹立しますが、この当時は朝鮮の北にあった渤海国のさらに北の沿海州付近にいた民族です。
当時、渤海国は唐と対立していて、唐は新羅及び靺鞨と連携していました。
孤立を避けるため渤海国が日本に使節を派遣したのが724年。つまり多賀城が設置された時期です。
沿海州から樺太を経て、さらに北海道を経て蝦夷の国へ至り、多賀城へ。
その距離が、奈良の都から多賀城までの距離の2倍くらいになると言うのですね。
多賀城から靺鞨までの距離を当時の人たちが意識していたというのは驚きです。
靺鞨が具体的にどの地点を起点にしていたかわかりませんが、そのルートをイメージできる人々がいたのです。
やがて多賀城を拠点として蝦夷征伐が開始されました。
多賀城にいた人たちは、遠い靺鞨國の向こうに東アジアの軍事的緊張の臭いを嗅いでいたのかもしれません。