お祖父さんの戦場

(1)金鵄勲章

遠い親戚の法事の場からLINEで写真が送られてきました。
故人の遺品ですが、金鵄(きんし)勲章というメダルと表彰状、従軍記章、認識票。

私が歴史好きだと知って感想を聞きたかったようです。
金鵄勲章は武勲を立てた軍人がもらえるもの。

従軍記章は戦争に参加した証明書ですが、上海事変と支那事変の二つの記章があり、それぞれ年代も書いてあります。

認識票によると歩兵第七連隊第一中隊とあり、金沢の第九師団所属の伍長でした。
伍長は兵卒の上で将校の下、いわゆる「下士官」であり、現場の班長的な存在です。

故人は、第一次と第二次の上海事変に参加しています。
いずれも「事変」で片づけられない激しい戦闘が起きています。

昭和7年の第一次上海事変では肉弾三勇士が軍神になったし、昭和12年の第二次上海事変はそのまま日中戦争へ、そして南京占領へとつながってゆきます。

故人の家族はこういった話も、故人が南京事件の現場にいたであろうことも全く知らなかった様子で、私はどこまで話をしたものか考えました。

死ぬまで言えなかったことがたくさんあったろう。と想像します。
昭和15年に足に銃弾を受けて退役し、戦後も長生きされて、その葬儀には私も参列しました。


(2)第一次上海事変

遠い親戚のお祖父さんが参加した第一次上海事変とは、何だったのか。
上海は列強各国の商人らが居住している「租界」が発展してできた都市です。

アヘン戦争、義和団事変、その後も中国を植民地化しようとする日本や外国に対する中国人の強い不満が鬱積していました。

昭和6年、日本軍(関東軍)が満州全土の占領を開始して国際社会の反発を買っていた頃、関東軍参謀らの一部が国際社会の目をそらすための謀略を画策しました。

国際都市上海で大事件が起きれば、満州問題への国際社会の関心が薄れるだろう。
こうして紆余曲折の末、昭和7年1月28日、上海租界を守備する陸戦隊(日本海軍)を中華民国第19軍が攻撃する形成となりました。

このとき救援として派遣された部隊に、お祖父さんが所属する陸軍第9師団がありました。
上海北方の揚子江河口に上陸し、中国軍の包囲網を突破しようとしてたくさんの戦死者がでました。

お祖父さんは歩兵第七連隊の第一大隊に所属していました。
一連の戦闘で第七連隊長が戦死し、同じ連隊の第二大隊が壊滅して大隊長(空閑昇少佐)が捕虜(後日拳銃で自決し映画化された)になるほどの激戦でした。

敵陣の鉄条網を破壊するために自爆した3人の工兵「肉弾三勇士」の実話もこの戦場で生まれました。

空中では米軍義勇兵ロバート・ショートの操縦する中国軍機が空母加賀の艦載機と格闘しました。
これを撃墜(日本史上初の)したパイロットは当時子役だった森光子さんからファンレターをもらっています。

民間人に紛れて攻撃してくる中国人ゲリラ(便衣隊など)への対応にあたって民間人が巻き添えに処刑される問題もでました。
5月5日に停戦となりましたが、この事変では、中国と本格的な戦争になれば何が起こるかを予想させる様々な出来事がありました。

お祖父さんは無事に帰れました。日本側の死傷者約3000人。中国側約18000人だとか。
昭和7年6月14日、衆議院本会議において満洲国承認決議案が全会一致で可決されました。

満州国誕生。そして、5年後には第二次上海事変が起きます。

 


(3)匪賊討伐

第一次上海事変後、満州に移動した第9師団に私のお祖父さんが伍長として所属としていました。
満州駐箚(ちゅうさつ)任務で最も危険なのは匪賊の討伐です。

広大な満州ではそれまでの歴史において、中央政府の統治が村落に及んだことはほとんどありませんでした。
治安と秩序は都市部に限られ、しかも当時は軍閥間の抗争で治安が悪いため都市を一歩出ればそこは無法地帯。

農村は自衛のために武装し、互いに連携するしかありません。
その背後にいたのが匪賊や馬賊と呼ばれた非合法武装勢力でした。

奉天軍閥の首領として有名な張作霖も満州馬賊の出身でした。
匪賊は村や財産があるところを襲撃したり、富裕者を誘拐したりもしますが、自衛組織の一面もあります。

数千年の流儀で自治をやってきた地方に、いきなり日本軍がやってきて日本流の秩序をもたらそうとしても無理があります。

当時、満州に対する日本の権益は満州鉄道沿線に限られていましたが、沿線の治安維持のために匪賊討伐権が国際的に承認されていました。
治安を乱す匪賊を討伐すると称して、所在の関東軍が頻繁に出動しました。

匪賊は馬賊、つまり馬に乗って小銃を打ち、相手が手ごわいとみれば山野に隠れますから、匪賊討伐は数日にわかって山野を彷徨うことになり、不意打ちを受けたり、怪しい家屋を摘発したりと、常に緊張を強いられる活動でした。日本兵の犠牲も多かったのです。

捉えた匪賊は多くの場合、現場で処刑されます。
そういう写真はネットでいくらでも出てきます。お祖父さんも、そういった写真を持っていました。

軍隊は24時間、分刻みで統制され、何が正義であるかを考える余裕を与えません。
お祖父さんの胸の内を想像すると、現代の常識とは相当かけ離れたものだったと思います。

でも、それも私の勝手な想像にすぎません。
私は何も聞いていないのですから。


(4)第二次上海事変

昭和7年、国際的孤立と引き換えに誕生させられた満州国。
その国際的非難をうやむやにした第一次上海事変。

しかし関東軍の一部過激将校達の野望は止まりません。
昭和12年7月7日、謎めいた盧溝橋事件により戦闘が始まると、和平交渉がまとまらない中で中国の反日感情が益々高まってゆきます。

ドイツ陸軍の支援を受けて対日戦の準備を固めていた中国軍の一部は、昭和12年8月12日、上海の共同租界を包囲し、翌日には所在の海軍陸戦隊の陣地を攻撃しました。

上海沖の第三艦隊(日本の)に対する爆撃も始まり、これを受けて日本海軍は台北から南京などの重要都市に対する渡洋爆撃を開始しました。

8月15日に日本政府は「支那軍膺懲(ようちょう:こらしめること)、南京政府の反省を促す」という声明を発表。
2個師団を動員して上海派遣軍を編制し、8月23日は上海近辺で上陸作戦を開始。

華北所在の日本軍も攻勢に出て本格的な戦争状態となりました。
上海救援のため派遣された上海派遣軍は上陸戦で大損害を受け、その後もゼークト陣地と呼ばれるドイツ式要塞を相手に苦戦し、9月9日、お祖父さんが所属する第9師団にも出動命令がでました。

派遣軍は苦戦の末陣地を突破し、中国軍を撤退させることに成功しましたが、第9師団は南京占領までに大損害を受けました。
ウィキペディアでは戦死傷者18,761とありますが、これだと一個師団相当の人数なので、師団がほぼ全滅した規模です。

補充を受けながら戦闘を続けたのでしょうが、上陸戦に参加した人のうち、南京にたどり着けたのはどのくらいだったのでしょうか。

やがて中華民国政府は首都南京を放棄して西へ移動。
これを日本軍が追撃する形で事変は拡大し、気が付くと日本は世界を相手に戦争しておりました。

このあと、日本軍は内陸部でゲリラ戦術に悩まされ、南京事件など東京裁判で問題にされた残虐行為も起きました。

お祖父さんは昭和15年、おそらく華南のどこかで足に銃弾を受け、帰国して除隊しました。
ここで負傷していなければ、たぶん中国大陸で命を落としていたでしょう。

プライベートライアンみたいな体験を二回も。よく生きて帰れたものです。
戦後、本人はだまっていたので、私に想像できるのはこのくらいです。

おわり。