娼妓解放令の発布後、自由の身になった娼妓たちがただちに新たな職につけるとは限らず、女紅場などで女性のための職業訓練が行われたりもしましたが、自由の身に戻ったためにかえって生活に困窮する者も出たようです。 遊女解放令を受けて遊郭は建前上は消滅しましたが、貸座敷という営業形態にカタチを変えて営業の実態は存続し続けました。明治6年、娼妓渡世規則、貸座敷渡世規則が発布され、遊郭や買春宿は営業場所の指定など各種の制限を受けつつも各地域警察等による営業免許を受けて行われつづけました。 貸し座敷営業とは、その名のとおり「座」つまり場所を貸す営業であって、娼妓が自由意志で場所を借りて商売をするという形式です。娼妓解放令は娼妓自体の存在を否定するものではなく、本人の意思により職業選択の自由を与えるという意味でしかなかったので、依然として売春営業は存在しつづけたのです。 また、かつての遊郭以外の業者達も免許を得て営業することができたようで、明治になって貸座敷等の営業はかえって増加したそうです。
☆他サイトへリンク 今昔 厚木の花街bO7 (「市民かわら版」より)
厚木の風俗営業免許など、当時の花街の様子が非常に詳細に語られています。
女紅場 (「祇園を読む」より)
売春に対する行政の対応を二つに分けると次のようになります。
@売買春行為を一切禁止するタイプ
→売買春は地下に潜伏し、結果として散娼になってしまう。
A場所など一定の条件で売買春を公認するタイプ
→売買春は公的機関によって管理されるが政府の体面上の問題がある。
明治政府は人身売買は禁止しましたが、娼妓の存在については否定せず、一定の地域に限定させたうえで地方警察に監視させる方法をとりました。娼妓営業や貸座敷営業の許可制度は地方行政の中で明治初年から存在してきましたが、1900年に内務省令として娼妓取締り規則が施行され、娼妓は名簿に登録され、より強い警察の監視下に置かれるようになりました。 これをもって公娼制度と呼びますが、モトは欧米で確立された制度を日本に取り入れたものでした。軍隊への性病蔓延の予防のためと言われていますが、この制度は終戦後の1946年まで続きます。結局20世紀になったところで、一定の場所に限定しながら売買春を公認する「A」のタイプへ転換したことになります。 公娼に対して、登録されていない非合法の娼妓は私娼と呼ばれました。私娼は飲み屋や新聞縦覧所などをたくみに利用して営業することがあったようですが、それ以外にも興行場、飲食店、ダンスホールまでもが、売買春に利用される恐れありとして規制の対象となりました。興行場及興行取締規則、特殊飲食店営業取締規則、舞踏教授所及舞踏教師取締規則など、業態ごとの許可制度が設けられました。 このように、本来は性風俗と関係がないはずの場所でこっそり性風俗営業を行う業態が存在し、行政がこれをどうにかして取り締まろうとする関係は、現在の風俗営業許可制度にも影響しています。つまり、本来は性的サービスを行わないはずであるが性的サービスの隠れ蓑になりやすい営業について、健全性を維持するために許可制にするという発想です。 なお現在は健全性を確保するための許可制度ということになっていますが、戦後の混乱期においては、特殊飲食店等は警察が売春営業を積極的に黙認するための便利な道具として存在したこともあったようです。
☆オリジナルコンテンツ 明治後期の風俗営業 自由廃業と公娼制度
(娼妓綾衣の廃業顛末)
☆他サイトへのリンク 与謝野晶子 私娼の撲滅について「青空文庫」
07/08/13 更新
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