1、 風適法の歴史と背景
明治維新 〜 風俗の一新

 娼婦が一箇所に集中せず、街中で散らばって営業する状態を「散娼(さんしょう)」と言うのだそうです。
行政が売春を厳しく規制した場合には生じやすい現象です。散娼の場合は取り締まりが難しいという短所がありますが、売買春が公認されているわけではないので、近代国家としての対面は保てます。逆に娼婦を一箇所に集めて営業させることを「集娼」(しゅうしょう)と呼ぶそうです。


 江戸幕府はこの方法をとったわけですが、取締りがしやすく、とくにに治安維持と性風俗管理の面では合理的でもありました。吉原遊郭では犯罪者情報の提供が義務付けられていたそうです。しかし、集娼は公権力による売春の積極的公認という側面を持ち、近代国家としては体面上の問題がありました。とくに明治期には、遊郭で働く女性が借金の返済を名目に強制的に働かされていたという事実が問題となりました。


 明治5年、マリア・ルス号事件における国際裁判の過程において、日本で遊女の人身売買が公認されていることが国際的に注目されたこともあって、同年娼妓解放令が布告され、遊郭における人身売買は法律上禁止されることになりました。ちなみに、この明治初年は日本人の風俗環境が激変した時期です。


 日本人の外国への人身売買禁止、帯刀禁止、富くじ興行禁止(明治1年)、混浴禁止、政府批難や風俗紊乱の出版を規制(明治3年)、華族のおはぐろと書き眉を禁止、死体の試し切り禁止、人体売買禁止、服制一新の勅語、賤民の裸体禁止(明治4年)、天皇が牛肉を試食、江戸府庁が淫奔な劇・芝居を禁止、女相撲禁止、神社仏閣の女人禁制廃止、東京府下で裸体・混浴・春画・性具・刺青厳禁の布令(明治5年)、あだ討ち禁止、闘鶏禁止(明治6年)、東京府が道路や車内での頬かぶり・手拭かぶりなどを禁止(明治7年)。


 以上の用語はおおむね当時使用されていたままで記載していますが、現代人からは想像のつかないような風俗環境や意識の変化があったようです。このように日本人は、かつて国家権力によって根こそぎといってよいほどの風俗大改造をされた経験があって、風俗行政は現代日本のあり方、日本人の人生観や法価値観にまで深い影響を与えてきたと考えられます。


 現代でも日本人が「法律」というものについて、国民が政府をコントロールする道具ではなく、政府が国民を支配するための道具である、といったような見方をするのは、こういった歴史的な事情を考えなければ説明がつきません。風俗とは、その社会に住む人間を心地よく包み込むものだと思います。それを法律で無理やり変えさせられたのですから、国民が法律に不信を持つのは当然の結果だと思いますし、そのような変化を受け入れてしまった日本人の柔軟性(従順さも含めて)には驚きます。

 

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 07/08/13 更新

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