| ◆プラーゲ旋風とJASRAC
1931年(昭和6年)ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲという人物が、ヨーロッパの主な著作権団体の代理人として、日本での著作権の使用許諾・使用料請求などの活動を開始しました。
その当時の日本では著作権についての認識が薄く、外国の楽曲の著作権に使用料は払われていませんでした。著作者の権利を無視して利用されていたのです。
プラーゲは放送、演奏、出版など幅広い分野で利用者に対し著作物使用料を請求し、裁判を辞さない強硬な態度をとりました。日本ではすでに1899年に著作権法が施行されているにもかかわらず、その後も無断使用が堂々と行われていたのですから文句も言えないでしょうが、当時の音楽関係者にとってはプラーゲが請求する金額を払っていたのでは商売が成り立たず、一時外国の楽曲がNHKでさえ使用できないというほどの困った事態になりました。
これに慌てた日本政府は、1939年(昭和14年)仲介業務法を制定し、社団法人大日本音楽著作権協会(これが現在のJASRAC)に仲介業務の許可を独占的に与え、他の者は仲介業務ができなくなったのです。
このためプラーゲはあきらめて1941年、日本を去ったのでした。これ以来、JASRACはわが国の音楽著作権管理を一手に引き受けてきました。
JASRACは会員との信託契約に基づき著作物の利用に許諾を与え、かつ使用料を徴収し著作権者に分配します。信託契約第1号は島崎藤村だったそうです。第2号は土井晩翠。現在では1万人を超える契約者と450万曲(うち日本の曲90万曲)の作品を管理するにいたっています。また、使用料の徴収総額は年間900億円を超えます。
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