著作権侵害を指摘する前に

 最近は著作権ルールについてきちんと守ろうとする一般市民の動きがあって、それは大変喜ばしいことではありますが、ときに行き過ぎがあってトラブルに発展することがあるようです。
 特にインターネットにおいては、他人の文章や画像が無断で使用されるケースがよくありまして、それを発見した人がホームページ運営者に指摘し、これを改善させるということがありますが、ひとつ注意していただきたいことがあるのです。

 

 例えば。

 人があることを自由に表現したときに、その表現が結果として第三者の表現と偶然そっくりになってしまうことがあります。しかし、それを第三者が見たときに、いかにも真似して表現しているように見えてしまうことがあるものです。
 たまたま結果的に第三者の表現と似てしまったからといって、後から表現した人の表現の自由が制限されるということはおかしなことです。特に民主主義の社会では、このようなことが起きることは、特に敏感に注意しなければならないことです。民主主義社会においては市民の不断の努力によって法や社会のあり方を監視され、議論されることがどうしても必要であって、インターネットはそのための道具の一つとして重要な意味を持っていると考えられるからです。
 つまり、著作権は経済的利益を確保させるための財産権ですが、表現の自由は財産権の保護とのバランスを考えて慎重に扱われるべき自由であるということです。

 「表現の自由」と言いますと、まるでヘアヌード写真集や芸能週刊誌の味方をしているように感じる方がおられるかも知れませんが、今この瞬間でさえ、私がこの文章を書くにあたって、「世間から盗作だと勘違いされないように注意しなければ」と思った時点で、すでに私の立場はかなり不安定であるし、市民の自由な社会批評は、結果としてある程度制限されるおそれがあるのです。
 それに、自分の主張を展開するために他人の表現を引用したり情報を転載することもあります。引用の範囲については非常にあいまいで、特に表現の自由を認めるためには、ある程度寛容な解釈で判断する必要があります。なぜなら第三者が「あの人の引用の目的は不当だ」と思っても、真実はその引用をする本人の心の内にあるからです。さらに言わせていただくと、すべての表現は必ず誰かから習ったものです。すべてを完全に独創的に表現する人間はこの世にいないはずですし、真似をしないで生きている人もいないはずです。また、情報の転載についても、事実に関する情報ではどうしても同じ内容や表現になってしまいます。
 どういうマネがよくないマネなのか、というところで、一つ一つ考えてみてから行動に出ていただきたいです。 著作権法の理論を杓子定規にあてはめてしまうと、かなり広い範囲で表現の自由が無用に制限されてしまうおそれがあります。 どのように表現しているかという視点は重要ですが、何のための表現かということも念頭において考えるべき場合があります。全く他人から文句を言われないような文章しか作れないということにはなってほしくありません。
 こういったことは法律だけでなく、人の生き方の問題でもあります。 人が人を疑う理由は無数にあるでしょうが、「疑われる方が悪い」とか「疑われそうだから表現ができない」、という状況がインターネットの世界で起こりうるとしたら、これは非常に悲しいことだと思います。

 

 もちろん、不当な利用行為やタダ乗り行為は防止されるべきです。もしそれを指摘するときには、「もしかしたら自分は勘違いしているかもしれない」という可能性を含みながら、指摘するべきであると思います。いや、これは警鐘でもあります。

 誰かの権利を守るということは、別の誰かの自由を制限する結果にもなるわけですから、難しい判断が必要になる場合があります。経済的利害が関係しない日常的な著作権トラブルにおいては、あまりに杓子定規な法律論や法律解釈は実情にそぐわない場合が多いです。むしろ、思いやりや礼節をわきまえたケースバイケースの対応が必要でしょう。もし自分の主張が間違っていたとしても、取り返しのつかない結果にならないような工夫をして、忠告や指摘をしていただきたいと思いますし、私自身も日頃から慎重に対応しなければと思います。
 特に、公開の場での誹謗中傷が特定の個人や立場を傷つけないように配慮していただきたいと思います。著作権マナーの問題は、マナーの中の一つにすぎません。広い視野で、人として目指すべきマナーを考え、そのうえで著作権のことも考えていただければと思います。

 

 

著作権のひろば管理人 平成15年10月