突然ですが、ランドセルというのは30年も昔に背負っていましたが、それ以来ずっと関心を持つことがありませんでした。最近、子供のためにランドセルを選ぶことになって、理屈っぽい私はいろいろ考えてしまいました。
どうしてカバンではなくてランドセルなのか?
ランドセルの値段が平均して3万円くらい。ちょっと贅沢なものを選ぶと5,6万くらいにもなります。6年間も使うんだから、ということで丈夫なものを選ぶのだそうな。
それほど丈夫で便利というなら、どうして大人になったら使わなくなるのだろう。そもそも中学生になったら絶対にもう使わないし、小学生にしたって、塾にゆくときにはランドセルを背負わないものです。便利なら学校にゆくときだけでなく、デートのときも、会社勤めのときも、買い物でも使えばいい。ところが「便利だから」と口にしつつも、小学校に登下校するとき以外には使われないのだらおかしい。
そもそもこの私自身が1万円台のビジネス用ケースでもう2年使っていて大丈夫なのに、登下校のときしか使わないランドセルが壊れると言うことがおかしい。もしランドセルが壊れたら、それは安かったからではなく、根本的に不良品なのだ。
そして思い出すのは、小学校へ電車通学していた私自身の苦い思い出です。満員電車の中でランドセルを背負うことによってどれほど余計な負担を強いられたことか。あれは一人分余計なスペースを作り出し、満員状態の中では人間同士の圧迫によってとてもアンバランスな姿勢を現出し、耐え切れなくなった私は背負うのをやめてランドセルを手に持ったりしたし、周囲の大人が邪魔に感じたせいか、私のランドセルをとりあげて網棚にあげたりしたこともありました。ランドセルがあると人の谷間で持ち上げられて、私の足が数センチ中に浮くこともしばしば。いわゆる空中浮遊というやつです。とにかく、私にとってランドセルは決して便利な道具ではなかったのですが、学校がこれを指定して買わせたのでやむなく使っていました。今思えば、いったいどうしてそこまで苦労しなければならなかったのか理解できません。ただ校則だし、皆も使っているからという理由で疑問にも思いませんでした。
もともとランドセルは軍隊用の道具です。歩兵が銃剣を持ち、ランドセルを背負って敵に突進します。雨風や爆風や砲弾の破片に耐えなければなりませんから、丈夫だし、収納にも便利でなければならない、とても実用的な道具です。しかし、どうして小学生が歩兵突撃用の背嚢を背負って登下校しなければならないのでしょうか。学校制度はたしかに富国強兵のための制度からはじまり、学校は子供用の調練所でした。一昔前なら通学に徒歩30分なんてのはよくあることだったでしょう。でも現代日本においてランドセルの必要性がどれほどのあるのでしょうか? いまだにランドセルの使用を強制している学校があるのなら、その理由を教えて欲しいものです。
ランドセルが日本の文化のひとつかというと、それほどの古さや伝統はあるわけでなく、ほかに理由をあれこれ考えても、ランドセルを強制される事情がみつかりません。誰も本心でランドセルを欲しいわけではないのに、持っていなければならないと思い込んで買っているわけです。これは法に対する姿勢と共通する部分があります。どうして自分がそうしなければならないのかということを考えないで、ただそういうふうにするものだと自分から思いこんで、みずから自分の自由を規制してしまっているのです。それでいて、自分が不自由なのは法律のせいだと思い込んだりします。私もそうで、結局ランドセルを買いそうな気配ですが、それは自己主張しないでブログに書くだけで終わりにしてしまう自分が悪いのです。(だったら文句言うなと言われますね・・・)
法律には全て合理的な理由や背景があるのが当然で、そうでなければ法の支配する社会であるとは言えないはずなのですが、そういう基本的な思考がすっぽり抜け落ちたままで、自分達は自由な、法の支配による高度な社会の一員だと思ってしまうところがあります。でもこの社会を支配しているものは「法」ではなく「空気」のようなものではないかと思います。 私たちはよく「空気を読む」とか、「とてもそんなことを発言できる空気じゃない」といったように「空気」という言葉を使います。 納得できないにもかかわらず「空気」に自分からすすんで従い、また他人もそれに従うのが当然だと思いやすいことが日本人の特性だとしたら、これは長所でもあり短所でもあるのですが、いずれにせよ、それを自覚して日本流の社会制度を作ろうとしないところが日本社会のとりわけ重大な欠点なのだと思います。まあ、そういう重大な問題をほおっておくこと自体がよかれ悪しかれ日本の伝統文化だと言ってしまえばそれきりの話です。ただ、思いもよらぬ悪い結果に陥らなければ良いがと思うばかりです。
|
|